空前のAI(人工知能)ブームが訪れている。囲碁や将棋で名人と呼ばれる棋士がAIに破れ、ペッパーなどのロボット、iPhoneのSiri、自動運転技術といった身近なところにも活用されはじめている。ライフスタイルだけでなく、ビジネス分野でも金融・土木・防犯・医療と業界を問わない。しかし、国内におけるAI開発は世界と比べて、どのような位置づけになるのだろうか。

電気通信大学大学院情報理工学研究科の教授で人工知能先端研究センター・センター長を務める栗原聡氏はこう話す。

「現在のディープラーニング(深層学習)を中心とするAI研究開発には、多額の資金が必要となりつつあります。日本では、国からの研究費がAI分野全体で数百億円のレベル。一方で、Googleの研究費は年間1兆数千億円にも上ります。所有しているコンピューターの量は、日本に比べて比較にならないレベル。AI開発の基礎となるディープラーニングの理論や実装方法は理解できたとしても、その技術を活用するには、膨大な設備が必要なのです。例えば、日本の研究拠点において500万件のデータに対する学習に1週間かかるとしましょう。

対するGoogleは、数十億件のデータを数時間程度で処理できるといった感覚です。これではハンデがありすぎます。Googleは人材も資金もマシンも潤沢なリソースあるため、そういったことが可能なのです。これに対して、国内におけるディープラーニング研究はアメリカの後追いで、現状ではなかなか勝負になりません。しかし、後追いではあっても、研究開発はひたすら加速しています。後追いと割り切って、そして重箱の隅をつついて、論文を書くこともできますが、Googleに完成されたAIを実現されてしまったら、それこそ研究する意味すらなくなってしまいます」

想像以上に国内のAI開発は海外に対して大きく水をあけられている。栗原氏が言うには、パソコンなどの「OS(オペレーティングシステム)」がいい例だという。昔は多くのOSがあり、国内においてもOS研究は盛んであったが、今はWindowsやOSXなどでほとんどのシェアを占められている。だから新しいOSが売れない。高性能なOSを作っても売れなければ意味がなく、もはや企業が振り向かないという図式になっている。これがAI業界にも起こりかねないということだ。

 

日本の研究者はどこで勝とうとしているのか?

そこまで圧倒的に差をつけられているとすれば、今後のAI開発はどのような方向に向かうのか。もはやAI後進国としての立場に甘んじていくのだろうか。しかし、栗原氏が話すには、日本人の持つ”東洋的な宗教観”こそがビジネス活用の上でも、活路を見いだせる可能性があるという。

「宗教で考えたときに、アメリカにしてもヨーロッパにしても一神教の考え方が強く、人は神が創った特別な存在。よって、そのような神が創った人を超えるような存在の出現は許せないのです。つまりはAIは人間を超えるものであってはいけない。人を超えるものは、神の禁忌を犯すことと一緒なので、映画『ターミネーター』においてスカイネットは人類にとって敵対者になるのです。 アメリカ発のヒーローものは、『スパイ ダーマン』『バットマン』など、どんなにすごい能力を持っていても「・・・マン」というように“人間”です。それは根本に、人を超えるものはそもそもあってはならない、という考え方があるのだと思います。ですから、日本生まれの『ゴジラ』や宇宙人である『ウルトラマン』のような明らかに人間ではなく、人間を超えたヒーローには、当時はカルチャーショックがあったようです。

よって、アメリカのAIに対する漠然としてイメージは使用人(むしろ人よりも立場が低い)なのかもしれませんね。かたや日本人(東洋人)は、“いろいろなものに神が宿る”“和を以て貴しとなす”というスタンス。人類も生態系を構成する一部に過ぎず、われわれは生かされている、人が 自然を支配するのはあり得ない。世界はいろいろなものが、お互いが関係し合って1つの“系”を作っている、という発想です。つまり日本的発想でいけば、生活にAIという新しい存在が入ってきても生態系の一つとして受け入れられる可能性が高いのだと思います。 我々にとっては当たり前の感覚である、『ドラえもん』が友だちでいる、という発想って実はとてもすごいことなのです。ロボットのデザインもかわいいものが多い。つまり、日本ではAIとの“共生”が可能な地盤がある。これに対し、欧米では、高性能なAIにはどうしてもネガティブな感覚を抱いてしまうのです」

確かに一神教的な考え方は、日本人には理解しづらい宗教観かもしれない。今後、AIの開発が進み、自ら考えるAIが完成すれば、それは人を超えたものになり得る。栗原氏の言う通りだとすれば、日本人には受け入れられるが、西洋人は本能的に嫌悪感を持つということになる。つまり欧米では、技術的にそうしたAIを作れたとしても、敢えて作らない可能性すらある。これは性能や技術の問題ではなく、宗教観の問題だからだ。

 

AIやロボットに「何を求めるのか?」こそ重要になる

そうだとすれば、ひとつひとつの技術は敵わなくても、統合システムや運用に関してはリードできるかもしれない、と栗原氏は続ける。

「われわれと共生する親近感のあるAIを実現するためには、高い性能が必ずしも必須というわけでもありません。日本とアメリカがほぼ同性能のロボットを作ったとしましょう。しかし、日本型のみ見事に人と共生できる可能性があるのです。しかし、違いは些細な程度で、それもより高い性能を発揮させるための仕掛けなどではありません。『絶妙なタイミングで相手に対して相槌を打つ』などのちょっとした味付けだったのです。日本人にとっては極当たり前の間合いの設定を組み込むことで、人はロボットに親近感を抱きますが、欧米人には我々にとって当たり前の味付けの仕方がわからない。それを裏付ける話があります。

アンドロイド研究の第一人者である大阪大学の石黒浩先生と、劇作家・演出家である平田オリザ氏による世界初の試みであるアンドロイドと人が共演した演劇『さようなら』という作品があります。アンドロイドの振り付けは人がプログラムを書いて制御するわけですが、石黒研究室の学生が頑張ってもなかなか不自然な動きを消すことができなったのだそうです。しかし、平田氏による指示にて、振り付けに対して、1分間の動きに対して、『ここは0.2秒間合いを空ける』『この動作を0.3秒早める』『腕の動作角度を微調整する』といった変更を20くらい行うと、見事に不自然さがなくなった。

つまり、AIやロボットが人らしく振る舞うために求められるのは、性能ではないということ。人が笑ったり、悲しんだりするのは、人が社会的存在として環境に適応するために獲得した能力であり、より優れた高い知性を発揮するためではないですよね。このような高い感性を持つか持たないかが欧米との違いで、汎用ロボットの(分野での勝算がある)最後の砦なのだと考えています。最後の味付け、隠し味的なものがキャスティングボード的な知的財産(特許)になり得るかもしれませんね」

そういった感覚は、日本人が優れているわけではなく、たまたま島国である日本人的感性が可能性を秘めているだけかもしれないと栗原氏は語る。大きく引き離されたAI開発への光明、それが日本人の持つ宗教観で、そしてAIとの「共生」にある。さらなるIT化が進む近未来において、この考え方がビジネスやライフスタイルのカギになることは、荒唐無稽な話ではなさそうだ。

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