世界でもっとも人気のある旅行先はどの国/都市か知っているだろうか。ニューヨークやロンドン、パリなどを想像するかもしれないが、世界でもっとも旅行者が多いのは、実は「タイ」だ。

マスターカードが実施した2016年1〜12月の都市別旅行者調査で、バンコクが1941万人と前年に続き2年連続で1位となったのだ。2位はロンドンで1,906万人、3位はパリで1,545万人。

タイへの旅行者の国別割合は中国が34%でトップだったが、続く2位が日本(7%)であることはあまり知られていない事実であろう。

このことからも日本人に大変馴染みのある国といえるタイ。そのタイでもっとも人気のあるビールはご存知のとおり「シンハー」だ。

シンハーを製造しているのは1933年に設立されたタイの老舗ビール会社「ブーンロート・ブリュワリー」だ。

シンハービール(シンハービール・ウェブサイトより)

このブーンロート・ブリュワリーの子会社シンハー・コーポレーションがこのほどベンチャー・キャピタル(VC)を立ち上げ、アジアやシリコンバレーのテックスタートアップへの投資を開始した。

シンハー・コーポレーションは、親会社のブーンロート・ブリュワリーが運営する50社以上のグループ子会社を取りまとめる企業。このシンハー・コーポレーションのVC設立は、タイを含めた東南アジアのスタートアップシーンの盛り上がりを示すものといえるだろう。

そこで今回は、シンハー・コーポレーションのVCを紹介しつつ、タイのスタートアップシーンの盛り上がりをお伝えしたい。

ビールだけじゃない、VC「シンハー・ベンチャー」が目指す新領域

シンハー・コーポレーションが自社のベンチャーキャピタル「シンハー・ベンチャー」を発表したのは2018年3月と最近のことだ。発表に先立ち、すでに2017年に香港に登記。資本金は2,500万ドル(約26億円)。

投資は直接的、間接的に行う方針で、コンシューマー・プロダクト、サプライチェーン・マネジメント、決済システムなどの分野に注力するという。アジアのスタートアップはもちろんだが、2018年4月にはシリコンバレーで出資先スタートアップを探す予定だ。

これまでにインドネシア系VC「ケジョラ・ベンチャーズ」とシンガポールのVC「バーテックス・ベンチャーズ」に計2,500万ドルを投資している。

ケジョラ・ベンチャーズは、インドネシアを中心に香港やインドのスタートアップへも投資をするVC。アンドロイドのロックスクリーン広告を開発するインドネシアのAyoslideや機械学習を活用した学習用Q&Aプラットフォームを開発する香港のSnapaskなど、20社ほどが投資先となっている。

一方、バーテックス・ベンチャーズは、シンガポールの政府系投資会社テマセクが運営するVC。シンガポールだけでなく、オーストラリア、米国、韓国、インド、イスラエル、香港、中国などワールドワイドに投資を行っている。投資先には、配車アプリのGrabやクラウドiPad・POSシステムを開発するマレーシアのStoreHubなどが含まれる。

冒頭で、シンハー・コーポレーションの親会社ブーンロート・ブリュワリーが50社以上の子会社を所有していることについて述べたが、この数が示す通りブーンロート・ブリュワリーが行うビジネスは多岐にわたる。ビール事業をメインとしながらも、食品・清涼飲料水、不動産、小売りサービス、音楽などの分野で事業を行っている。

こうした自社事業の生産性向上/コスト削減に役立つプロダクトやサービスを開発するスタートアップを育てるのはもちろんだが、投資を通じて新領域の事業やビジネスモデルを生み出すきっかけをつくることも狙っているようだ。

実際、ファッション・ブランドの「シンハー・ライフ」やビールレストラン「EST.33」などVC設立以前からブーンロート・ブリュワリーは活発に新領域の開拓を行っている。

「シンハー・ライフ」ウェブサイト

また2018年3月末には、デジタル放送局運営のMONOなどと提携し、eスポーツのプロリーグ「シンハー・eスポーツ・プロリーグ」を開催することを発表。eスポーツはアジア版オリンピックと呼ばれる「アジア競技大会」の2022年大会で競技に採用されたほか、タイ政府スポーツ庁がeスポーツを競技として認定するなど、タイ国内外で盛り上がりを見せている。

政府が600億円ベンチャーファンド、活況するタイのスタートアップシーン

シンハー・ベンチャーの登場は、タイのスタートアップ・エコシステムの活況を示すものとして見ることができる。

タイのスタートアップシーンに注目が集まったのは2016年4月のこと。タイ政府が、スタートアップ・エコシステムの確立に向けて5億7,000万ドル(約600億円)のベンチャーファンドを立ち上げることを発表したのだ。

当時すでに立ち上がっていたスタートアップ2,500社への投資だけでなく、スタートアップの数を2年で1万社に増やすという狙いがあったといわれている。

タイ政府が主導してファンドを立ち上げた背景には、当時スタートアップに資金を融通できるVCが国内で不足していたという事情もあるようだ。

Tech in Asiaの調べでは、タイ国内で活動しているVCの数は2012年には1社しかなかった。しかし、2015年に50社以上、2016年に60社以上と、タイ政府の取り組みも手伝って着実に増えている。また公開されたスタートアップの資金調達額も2011年の100万ドルから、2014年5,500万ドル、2016年1億ドル以上と順調な伸びを見せている。

大手企業のスタートアップ支援が増えていることも、スタートアップシーンを活況づける要因になっているようだ。

たとえば、タイの民間大手銀行バンコク銀行は、2016年6月に自社VCを設立。フィンテックだけでなく、天然ゴムやコメなどを含めタイが強みとする分野のスタートアップ支援を行うという。また、タイ通信大手のトゥルー・コーポレーションは2017年7月、スタートアップのための「イノベーション・シティー」を展開することを発表。通信インフラや研究施設が整った地区で、第1号は2018年7〜9月期にオープンする予定だ。

このようにタイのスタートアップ支援体制は年々強化されており、数多くのスタートアップが誕生している。

シンハー・ベンチャーの動向を含め、世界No.1の観光立国タイがスタートアップハブとしてどのように進化していくのか、今後の展開に注目していきたい。

文:細谷元(Livit